昭和43年07月20日 朝の御理解



 御理解第47節
 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」

 これは、まぁ信心の初歩の人達に頂いた御教えではなかろうかと思います。「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ、と。これは病気だけの事ではないでしょうけれども、あれやらこれやらと、手を打ったり心配をしたり、どうにもいけんからお願いをすると云うたぐいのもんだと、こう思うんですね。自分のあれやらこれやら手を打って、その後に神様にお願いをするという分けですね。
 ここには、そいうような事では、おかげにならんとこう云うておられます。ね、もう神様に頼むという「一心」と云うものがここでなんていうんでしょうかね、本当の事になってこないからでしょうね。そこで、その四十七節のひとつ前に「痛いのが治ったので有難いのではない。いつもまめなが有難いのぞ。」と。ね、「痛いのが治ったので有難いのではない。いつもまめなのが有難いのぞ。」
 そういう信心が分かってくる、そういう信心が身についてくる、ねえ。そこにはもう四十七節のような事にはならないと思うですね。ですから四十七節のところ「いつもまめなのがありがたい」と言うところは、どういう事かと。信心させて頂くと云う事は有難い事じゃと、信心ちゃありがたいもんじゃなぁと。と皆がしばらく信心しよれば段々そういう風に思いもし、言いもするようになります。
 けれども、もう信心がやめられんと云う所までほどに有難いのじゃない、ねえ。信心をする、何とはなしにおかげを頂く、不思議な事であるなぁと思う、ねえ。「神様のおかげちゃありがたい」と。あれもああいう風にしておかげを頂いた、これもこういう風にしておかげを受けたという事を思うと、信心は有り難いなぁという事が分かるけれども、信心しておって、あれもおかげこれもおかげと云う様に。
 そのおかげばっかり、おかげと思えない事にもある、ねえ。それどころかそれとは願いとは、反対の事になってくるような事すらある。いわゆる「これほど信心するのに」と云うのである。そういう時に心が迷い出す、動揺してくる。信心が、もういくら拝んだっちゃ、もういくらお参りしたっちゃとても「私どんじゃおかげは受けきらん」と言ったような事になってくるのですね。
 ですから、この「いつもまめなのがありがたいのぞ」と云う、というのは、これは本当に信心そのものがありがたいと。おかげが有り難いのじゃない。ね、おかげが有り難いという間はこれは迷いやすい、ねえ。本当の事ではない。そうすると結局「祈れ薬れ」と言ったようなことになりかねない。あ、祈れくすれじゃなくて「薬れ祈れ」にするということになってくる。
 昨日、田主丸教会の筑水連合会の共励会が皆さん帰ってみえてから皆が言われる。「どげな話がありましたか」話される事は皆同じである。本郷の樋口さんが話されたという「お互いが、ねぇ、神様を使こうとる。神様に使われる身になれ。」と云う事が非常にまぁ印象的だったと云うわけでしょう。皆さんがそう言われるんですよ。今日の御理解もやっぱり、まさしくその通りの事。ね、
 神様を使こうておる間はですね、必ず迷いがくる。いわゆる神様を使うておると言うことはね、おかげ、おかげを頂いておるだけが有り難いと云うのである。だからやめられん。だからおかげがおかげでない事になってくる。「参たっちゃ同じ事」と云う事になってくると、ね、いわゆる神様を使こうとるだけですから、神様を使う事すらやめてしまう。そこで、「神様に使われる身になれ」と。
 そのところを、二代金光様四神様は仰っておられますね。「神の用を足せば氏子の用は神が足してやる」これは、まぁそのものずばりに、こう仰っておられますね。「神の用を足せば氏子の用は神が足してやる」これは、いろいろ意味が深い事でございましょうけれども、まぁ昨日あたりの、御理解にもつながるわけですね。そこで、そのお互いの信心と云うものがですね「痛いかゆいが治ったから有り難いのではない。
 いつもまめであると云う事が有り難いんだ。」という事。有り難いふうに考えてみれば「有り難かっですたいね。」と云う程度の有り難いのじゃない。もうしみじみとですね、しみじしみと平穏無事でおるという事が有り難い、ね。朝の御祈念にでも、こうやって朝早くからお参りが出来ておると云う事が有り難い。御祈念をしよるとしよるほどにありがとうなってくる。
 そこで、ここで私が分からせて頂く事はですね「おかげを受けれるから、有り難い」という間はこれは神様を使こうておるようなもの、ね。病気が治ったから有り難いのである。ね、ここでは病気が治ったから有難いのではなくて、いつもまめであるという事がありがたいのだと仰っておられる。「病気が治ったから有り難いのではない、いつもまめなのが有り難い。」いわゆる日頃が有難いのだ。
 いわゆる信心頂いておると云う事、信心を頂いておると言うことが有難いと、ね。そういう事になっとりますと、今日の四十七節のですね「祈れ薬れ」と言ったような事になってくるのです、ね。さぁ頭が痛いちゃノーシン、胃が痛いちゃ、さぁ胃散を飲む。飲んでいけん、ね、医者にかかっちゃならんと言うのっじゃない。ね、けれども、頭が痛い時に、すぐ神様をやはりすがる心と云うか、お詫びをする心と云うか、願う心と云うか、それはその信心内容によって違うてくる、ね。
 そしてお詫びをさせて頂きながら、お願いをさせて頂きながら、又は、御礼を申させて頂きながら薬を頂き、お医者さんのいわば、お医者さんに手を握ってもらうという事に、ま、なるわけですね。お医者さんに手を握ってもらろうから「これはあんた」ちゅうてから、お医者さんが首をひねらっしゃったもんじゃけん、びっくりしてから、それから後から神様にお願いする。もうそれでは遅い。
 お医者さんに難しい言われたから神様にお願いすると云うのはもう遅いと。これは例えば信心のない人が入信してくる場合は、もうとんだおかげです、ね。昨日も下関からお参りをしてきた夫婦が御座います。お母さんが子宮ガン。開けて見た所がもう手のほどこしようがなかった。そこで一家の者が悲観のどん底。それを下関の教会の信徒総代をしておられます仲林さんと云う方が、ここの事を話された。
 お孫さんが失明、生れ付きにもう目が見えない。それをここで開眼のおかげを頂いたと云う。毎月親子でお月参りが御座いますお礼参りが。その方の話を聞いたんです。あちらでは、もう随分ガンでおかげを受けた人の話をあちらで聞き、又実際におかげを受けておられますと。「一遍お参りしてみなさい。」と云うので昨日参ってきた。ですからそのまぁ医者に見放されてから、いわばお願いに来るとこうわけなんです。
 ですからこれなんかは又別ですね、皆がそうです初めは。けれども信心を段々頂いておってです、いわば信心が有難いとこう云うておる。まぁ、けれども、そのいざと云う時には他の事に縋ったり頼ったりしとおいてから、最後に神様と云うそう言う様な心がけではね、そう言う様な心がけでは、おかげにならんとおっしゃる。ね、これはその病気が治るとか治らないとかじゃない。
 そういう事ではこれからがおかげにならんぞという事である。でないとあまりにもここにはっきりと断言してあるね「おかげにならん」とこう仰る。これは実際おかげを受けておる。今云うように、医者に見放されてからでも、一心にお縋りしておかげを受けておる。だからその事がおかげにならぬのでなくてね、そういう心がけでは、あとあとがおかげにならぬ。いわゆる「おかげが有難いのじゃつまらんぞ。」と
 「信心が有難い、信心が有難い」と言いよるけれども、お前んどもはおかげを受けるから、自分の思う以上におかげを受けるから不思議なこっちゃあるなぁと云う様なおかげを受けるから、信心ちゃ有難いものだと云う様な事ではおかげにならんとね。それは本当の有難いのじゃない。「いつもまめなのが有難いのぞ」と。信心させて頂いて、愈々分からせて貰う事は、ね、目をつぶれば金光様が自ずと出てくる。
 出てくればもうその金光様と一緒にありがたいものが湧いてくる。「有難いなぁ」もう理屈じゃないです、ね。そんならそう言う様な常日頃に有難いというものが湧いてくる程の有難いと云うのは、おかげが有難いのではなくて、信心によって自分が浄化される、自分が清められる。信心によって自分自身がだんだん清めきらせて頂けていく、浄化されていく、だから有難いのである。もうそこはだからと云う理屈じゃない。
 浄化される自分が清められる清まっていきよくとですね、自ずと有難いものがそれにとものうてくるのです。その自分が清まる事自分が浄化される事、自分が本気で改まる事磨く事には本気にならないから、ね、本気にならんでもお取次を頂きお願いすればおかげが頂ける。だからおかげを受ける事が有難いと云う。そして「信心は有難いのう」とこう云うとるのではそれは本当の有難いのではないぞとこう云うわけである、ね。
 「痛いかゆいと云うのが、治ったから有難いのじゃない、いつもまめなのが有難いのだ」と、ね。だからいつもが自分の心の中に有難いものが、こう湧いて来る様なおかげを頂く為には、ね、いわゆる信心を頂かなければならん。信心を頂くという事は、自分自身が清まらなければ頂かれん。自分自身が段々浄化されてこなければ信心は頂けれるもんじゃない。神様が下さらんもん。信心とは真心信ずる心、ね。
 神心。どれをとっても神様が下さるはずがないでしょうが。自分の心の清まっていくと云う事、浄化されていくという事。それに神様が信念、いわゆる神様を信ずる心をいよいよ下さる、ね。そこから生まれてくる心、それが真心、ね。磨きもしなければ、改まりもしないで真心が生まれてくるはずがない、頂けるはずがない。もちろん神様をいよいよ信ずる心といったようなものが本当に頂けるはずもない。
 ましてや、神心などというものは、とてもとてもおよびもつかない。ね。その信心を頂くのだ。何十年信心をしよると云うても信心を頂いておる人がない人も随分ある。只、おかげだけを頂いておる。だからおかげにひかれて何十年信心を続けておると云うだけの事。ね、信心は頂いたのじゃなくて、おかげを頂いておる、ね。そこで昨日田主丸での話じゃないですけれども、私共がです、ね。
 神様に使われる身になれ、神様を使うておるだけじゃいけん。初めの間は神様を使こうとる、神様をまるきり小使さんのように思うとる。ね、「お願いします」言葉は「お願いします」でよかけれども、まるきり小使さん。ね。それでも神様は使われて下さるんだけれどもです、ね。その神様にこちらが使われると云う事になる。そこから私はだんだん信心が頂けてくるようになると思う。
 信心はね頂くもの、神様が下さるもの「もう私は15年間信心を頂いております」どげな信心ば頂いとるです、「毎日お参りしよります。」これは信心を頂いておるとじゃ、おかげば頂きよる。ね。信心を頂かにゃいけん。なら頂くのですから、こちらがですね、頂ける内容をです、こちらが本気で清まろう改まろう磨かせて頂こう、いわゆるそういう一心発起しなければいけなん。「本気で改まるぞ」と、ね。
 その改まっていく度合い、磨かれていく程度が、ね、信心がかえってくる。信心が頂ける、ね。だから信心ちゃありがたいなぁという事になる。何故って、有難いものを有難いと思わないでも、有難いものが湧いてくる。信心ちゃ有難かですのや、とにかくめくらが目があいたり、ちんばが立ったり、ガンも医者に死刑の宣告を受けたような人達が助かっていきござる、不思議なこっちゃある。
 これは有難いのじゃなくて不思議なこっちゃある。ね。信心ちゃそれじゃない。信心とは自分がありがとうなっていく事なんだ。そこにはですもう自ずと自ずとです、さぁ事と云う場合であってもさぁ事、頭が痛いというてもですうろたえまわって、さぁ注射じゃ薬じゃなんて云うのはもうあとのあと、ね。うろたえまわって注射うったり薬飲んだりしよるけんでん、お医者さんが注射うちそこないなさったり、ね。
 薬の盛り違いがあったりしてから、死なんでよか病人まで死んでしまうじゃないですか。ね、いまショック死なんかちゅうのがあるでしょうが、注射をうってから、ね、死んだ。そこんところを本当に祈るゆとりと云うか、祈る有難さというものが先にあっておったらそういう事にならん、ね。今日は後ろに小野先生が参って見えておられますがね、これはもう10年も前の話でしたでしょうか、ね。
 毎日沢山の手術をなさいます。それにですね、金光様を忘れてからメスを取った時には、もうすぐ帰してよいというような手術がですね、ある時そのもう簡単にすぐ帰してよかったつが出血させた。さぁ、あわててそのお電話でお届けがあったんですけれども「もう本当に金光様は、はずされません」とメスを握る時には、もうすでに金光様でなければですね、私が手術しようと云うような時には必ず失敗をすると云う体験を、まぁそういう報告的なお届けを私聞いた事があります。
 10年前でした。ね、ですからそういうお医者さんに手を握ってもらうという患者は幸せだなぁと私は思うのです。ね、祈らずしてメスはにぎられんて。ね、そのくらいの私医者には、やっぱり良心にかけておるんじゃないですけど、それを治療を受ける方の方もやはりそうなんだと、ね。医者が皆信心しておる訳じゃないですから、ね、どういう名医だと云ったって人間のことですから、どこにおそまつ御無礼が、ね。
 勘違いやら間違いやらがないとは限らん。この辺のところをですね、お互いがもう心の中にいつもあるもの。それは有難いもの。その有難いものを頂く為にはです、ね、おかげを頂く為には、こちらは有難くなくてもいいです。おかげを頂くためにはもう薬れ祈れでもかまわん。ね、もう医者に見放されたから、お願いしますでも助かる。けれども、そういう心がけでは、これからがおかげにならん。
 信心頂いておる値打ちがないと云うのである「おかげにならん」とはっきり断言しておられます。これなら確かに断言でいいですね「おかげにならん」とこれじゃ。その病気が治らんという意味じゃないです。そういう心がけでは信心頂いとっちゃ信心を頂く事ができんという事である。信心頂きたいならば頂けるこちらがです、ね、こちらが本気で改まらせて頂かせて貰いいわゆるこちらが浄化される、ね、清められる。
 そこに神様が信心は下さるもの。有難いというものは神様が下さるもの。それでいて初めて「信心ちゃありがたいなぁ」という事になってくるのです。どうぞ皆さん「祈れ薬れにすればおかげも早いが、ね、薬れ祈れにするからおかげにならん」と云う御教えを、ただいま私が申しましたような内容をもったもの。それにはまず御理解四十六節のです、「痛いのがなおったのが有り難いのではない。
 いつもまめなのが有り難いのぞ」というところをひとつ分からなければいけん。いつもまめなのがありがたいのぞ。そんなら今日からいっちょ有難くなろう、有難くなれるもんじゃない。ならいつもまめであることが有難いといつも心から湧いてくるような有難さにひたらせて頂く為には。先ず改まれ先ず清まれ、先ず限りなく美しくならせて頂く稽古をさせて頂けという事になる訳ですね。
   どうぞ。